大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

大阪地方裁判所 昭和55年(わ)4061号 判決 1985年6月03日

主文

被告人を罰金五万円に処する。右の罰金を完納することができないときは、金二五〇〇円を一日に換算した期間被告人を労役場に留置する。

秀平勇造に対する暴行の点は無罪。

訴訟費用中、証人田中森一、同樫原信昭、同梅垣修三、同高木洋志、同藤本正弘に支給した分は被告人の負担とする。

理由

(犯行に至る経緯)

被告人は、昭和二一年二月一二日大阪府東大阪市荒本で生まれ育ち、地元の意岐部中学校を卒業し、その後転々職業を変えたのち、昭和四三年に東大阪市に就職し、東大阪市教育委員会の現業で、学校校務員として働くようになり、太平寺中学校、菱屋西幼稚園を経て、現在永和中学校の校務員として稼働中の者であるが、右荒本地区はいわゆる未解放部落であつたことから、被告人自身十分な教育が受けられない環境で育つたため、自分の子供に対しては、満足な教育を受けさせてやりたいとの強い願望を人一倍抱くに至り、そのためには、右荒本地区の環境を改善しなければならないとの決意をもつて部落解放運動に身を投じ、昭和四〇年ころ、部落解放同盟荒本支部が結成されるやそれに加入し、右運動を継続していたところ、昭和四四年ころ、いわゆる矢田文書を巡つて、これを差別文書とみるかどうかという問題が解放同盟内部で生じ、被告人らはこれを差別文書でないとする立場を取つたため、上層部と意見が対立し、そのため解放同盟から排除されるに至り、それと同時にいわゆる窓口一本化行政のために、同和政策の恩恵からも排除されるに至つたものである。その後昭和五一年四月、右荒本地区を校区とする意岐部東小学校が意岐部小学校から分離し新たに設立開校され、被告人の長男も右意岐部東小学校設立と同時に小学一年生として入学したものである。被告人は前記のとおり、長男には十分な教育を受けさせてやりたいとの強い希望を持ち、右小学校の教育に期待していたものであるが、右小学校は同和推進校として設立開校されたこともあつて、同和教育に重点が置かれるカリキュラムが組まれ、又そのような学習が行なわれていた。すなわち、毎月二三日を狭山デーとし、いわゆる狭山裁判に関する内容を生徒に教える狭山学習を行ない、一月二八日、五月二三日、一〇月三一日を特別な狭山デーと設定し、同盟休校や校外での狭山裁判に関する集会に生徒を参加させたり、昭和五四年四月二九日の天皇誕生日に際しては、登校日として設定し、その時には反天皇制学習を行なつたり、又右以外の日における一般科目の学習においても、狭山裁判に関する教材を使用したり、反天皇学習を行なつたりしていたことなどから、被告人は右のような学習は、延いては一般科目の学習に影響を及ぼし、長男の基礎学力の低下を来すものと心配し、更には公教育の場で右のような狭山学習や反天皇制学習を行なうこと自体に強い疑問を抱き、昭和五四年一〇月ころ、志を同じくする人達と共に、右のような学習に反対し、意岐部東小学校の教育を正常化するための運動に立ち上がり、東大阪市会議員候補者藤本正弘の市議会議員選挙の選挙運動を通して自己の主張を荒本地区の人達に訴えたり、大阪府教育委員会と交渉して右教育の是正を訴えたりなどしているうち、昭和五五年二月ころ、右運動が契機となつて、全国部落解放運動連合会荒本支部(以下全解連という)が結成され、被告人が右荒本支部長に就任した。

被告人は、前記のとおり、被告人の長男を通じて、意岐部東小学校の教育内容、殊に狭山裁判や反天皇制に関する事項を公教育の中で児童生徒に教えていることの具体的な実体を知り、これを是正すべきであると強く反対し、大阪府教育委員会(以下、府教委という)や東大阪市教育委員会(以下、市教委という)に働きかけていたところ、昭和五五年一月二八日意岐部東小学校では、狭山裁判に関する同盟休校を計画し、それを父兄に広く呼びかけ、指定の集会場所に生徒を参加させるよう要請してきたが、被告人はこれに従わず、当日長男を学校へ行かせたが、小学校の門は既に閉鎖されており、当日の教育が受けられなかつたことから、同年二月一四日、三月一七日の二回にわたり、市教委と全解連とが交渉を持ち、被告人も全解連の一員として右交渉に加わり、右のような学校閉鎖という事態が二度と起らないよう要請し、市教委としても遺憾の意を表明した上、右のような事態が起らないよう市教委として適切な対処をする旨約束し、更に右交渉において、昨年の昭和五四年四月二九日に行なわれた同盟登校並びに反天皇学習についても、二度とないように努力する旨の回答を得ていたのである。被告人は右交渉の結果、四・二九同盟登校はないものと考えていたところ、昭和五五年四月中旬ころ、長男が小学校から持ち帰つたビラを見ると、四月二九日の同盟登校並びに反天皇学習を呼びかける文書であつたためこれに強く反発し、前回の市教委との交渉で得た約束はどうなつたのかという思いにかられ、他の全解連の役員と共にこれを中止させるべく市教委の幹部との交渉を申入れたが、同人らは不在で所在場所が分らず、幾度となく市教委へ足を運んだり、同人らの自宅を訪れても所在不明で会えず、止むなく府教委と四月二三日と同月二六日の二回にわたつて交渉を持ち、四・二九の同盟登校を中止させるよう要請し、府教委も右同盟登校は適切でなく市教委を厳しく指導していきたいと回答し、それに期待して四月二九日を迎えることになつたが、結局被告人らの期待に反し、同日の同盟登校並びに反天皇学習が行なわれたものである。期待を裏切られた被告人らは、右のような市教委の応対ぶりを見て、市教委は何をしているのかという強い不満の気持を抱くに至つた。被告人らはその後も市教委との交渉を申入れていたが、やつと同年五月八日ころ、市教委との連絡がとれ、同月一二日市教委と全解連とが交渉の場を持つ約束をとりつけることができた。

右交渉は、同年五月一二日午後六時二〇分ころから、大阪府東大阪市荒川三丁目二五番地所在の東大阪市教育委員会教育長室において行なわれ、市教委側は教育長秀平勇造、教育次長樫原信昭、指導室長家野修造、下村学校教育部長の四名が出席し、全解連側は府連の書記長東延、府連の中村書記次長、荒本支部の上原書記長、荒本支部長の被告人ら四〇名位が出席した。右教育長室は東西五・六四メートル、南北四・四八メートルの長方形であり、市教委側は東端に応接椅子を南北に置き、北側から家野、樫原、秀平、下村の順に一列で西側を向く形で着席し、その前に巾〇・四九メートル、長さ一・〇五メートル、高さ〇・四五メートルの木製上面デコラ張りの小さなテーブルを置き、それを狭んで全解連側は、市教委側と対面する形でパイプ椅子を並べ、その最前列に、北側から泉谷、東、中村、被告人、上原、井上の順に着席して交渉が開始された。

まず、右の交渉は、市教委が四月二九日までにどうして全解連と会わなかつたのかの追及がなされ、市教委側は全解連と会わない方が学校に対する指導が適切にいくと判断した旨の回答をしたが、全解連側はこれに納得せず、一時紛糾したもののその場は治まり、そのまま交渉は継続され、続いて府教委から市教委への指導内容に関する追及、学校から父兄に出された「子どもとともに天皇制を考えるために」と題する文書について市教委の見解を質す交渉が持たれ、途中で休憩を持ちながら、紛糾しては治まるといつた状況の中で、右交渉は継続された。

(罪となるべき事実)

被告人は、昭和五五年五月一二日前記のような経緯の下で、前記市教委の教育長室において、市教委との交渉で全解連の一員として参加し、前から二列目中央付近に席を変えて座つていたものであるが、同日午後一一時三〇分過ぎころ、全解連側が市教委に対し、教育行政の窓口一本化について質したところ、市の方針として窓口一本化が確認されているので市教委もこれに従うとの考えから、窓口一本化の態度に固執したため、これを撤回するよう一斉に全解連側が抗議するなど事態が紛糾していた折、前記樫原信昭が「市に窓口一本化の原則がはつきりしている限り、そのことについてはお答えできない。」等と言つたことから、被告人は激昂して自席から立ち上がり、右樫原に激しく抗議しながら、前記テーブルの天板を足で強く蹴りつけて、同テーブルの天板を相対して座つていた同人の両膝に打ち当て、よつて同人に対し、加療約一〇日間を要する左膝蓋骨部打撲傷の傷害を負わせたものである。

(証拠の標目)<省略>

(一部無罪の理由について)

検察官は、公訴事実第一として

「被告人は、昭和五五年五月一二日午後六時五〇分ころ、東大阪市教育委員会側の答弁に立腹し、いきなりテーブルをひつくり返した上、秀平勇造の右胸部を一回足蹴にし、もつて暴行を加えたものである。」というのであるが、右事実については証明が十分ではなく無罪であるので、その理由を示すこととする。

一前掲各証拠並びに証人家野修造の当公判廷における供述、押収してあるメモ(昭和五六年押第三四二号の四)によれば、右公訴事実にいうところの被告人の暴行事件が発生した状況は次のとおりである。すなわち、

前記のような経緯で市教委側と全解連側との交渉が持たれたが、その交渉の中で、意岐部東小学校が四月二九日に自主登校を父兄に呼びかけ、全解連がこれを中止させるべく市教委との面会を求めたがこれを果せず、そのため全解連は市教委を指導する立場にある府教委に面会を申し込み、四月二三日、二六日の両日にわたつて交渉を持ち、四月二九日の同盟登校を中止させるよう要請したのに対し、府教委も四月二九日の同盟登校は適切でなく市教委を厳しく指導していきたいとの回答を得ていたことから、四月二九日の同盟登校について何らかの具体的な指導が府教委から市教委に対してなされているものと考え、府教委からどのような指導を受けたかという質問をしたが、市教委側は、右指導内容について、四・二九については学校教育にふさわしい内容にするように指導しなさいと聞いているとの抽象的な答弁に終始したことから、具体的な指導内容を明らかにするように要求する全解連との間で押し問答がくり返され、結局全解連の要求に従い、府教委から直接指導を受けたという家野指導室長がその指導内容をメモに書きそれを示すということで家野が教育長室から出て行つた。家野は自分の部屋へいつたん引き返し、資料を見た上、その内容をメモに記載し、そのメモをコピーしたものを教育長室に持ち帰り、そのコピーを全解連側に渡したところ、その内容は「4/26府教委よりの指導内容4.29当日の教育活動が学校教育にふさわしい内容になるよう学校を指導してほしい」というもので、市教委の抽象的な答弁のくり返しと同じであつたことから、全解連側は一斉に反発し、「府教委の指導内容はこれだけか。」等と口々に家野を追及した。

右のような状況に続いて、右公訴事実に関わる事件が発生した。

二そこでまず、被告人の供述を整理すると次のとおりである。すなわち、

家野にこれだけかと追及したところ、家野は「これだけでんがな。」とふてくされたような態度で答えたことから、最前列にいた被告人は、右のような家野の態度に激昂し、テーブル上にあつた封筒を家野の頭上高く投げつけ、すぐ立ち上がり、家野に向つてテーブルの両角を持つたところ、被告人の側にいた上原書記長に後ろから羽交締めにされ抱え上げられたため、その拍子にテーブルがひつくり返り、上原は被告人よりも大きな体格をしていたため、被告人は上原に引つ張り上げられるような形になり、上原に離せということで足をバタバタさせたところ、左足のサンダルが脱げ落ち、それが秀平教育長に当つたかどうか知らないが、秀平を蹴ろうとの意思は全くなかつた。その後、被告人は二列目の中央付近に座らされ、テーブルを元の形に直して交渉はそのまま続行された。その際、秀平は胸を蹴られたことについて、何も抗議めいたことも言わず、胸を押さえるということもなかつたし、秀平の胸にほこりがついているのも気付かず、第一回目の休憩に入る際、全解連側の人から「教育長ほこりがついてまつせ。」と言われてハンカチで払つたので初めて気付いたような状況であつた。

というのである。

三ところで、被告人の右行為が家野指導室長の誠意のないと受けとられるような対応ぶりが原因となつていたことは、前掲各証拠と照し合わしても十分認められるところであり、家野が「これだけでんがな。」という言葉を発したかどうかはともかくとして、被告人らを刺激するような態度であつたことは、証人秀平もこれを認めているところであり、右事実に照せば、被告人の攻撃の相手方は、専ら家野に向けられていたことは、誰も疑う余地のないところであり、しかも上原書記長が被告人を制止したのは、被告人が家野に対して暴行を加えるかもしれないとの状況のもとでなされたことも十分認められる。このような状況のもとで、被告人が突如として秀平教育長に攻撃を加えるということは一般的には考えられず、もし検察官主張のように秀平に攻撃が加えられたとするならば、その間に何らかの秀平に攻撃が加えられなければならない事態の変化があつたと考えなければならないが、被告人の右行為は一瞬の出来事であつて、他の証拠を見ても、そのような事態の変化があつたことを窺わせるものは、何も存しない。

四ところで、被告人から蹴られたという証人秀平の供述を検討すると、その蹴られた状況について次のように述べている。すなわち、

家野がこれだけでんがなと言つたあと、被告人が立ち上がり、持つていた封筒を家野指導室長に投げつけ、「なにお」と言つていた、その一瞬あとテーブルの端を持つてひつくり返したので、それを避けるため、中腰のような形で立ち上がりかけていたそういう姿勢のとき、被告人が蹴つてきたが、突嗟のことで十分にその辺の状況は記憶していない、被告人の足が当つたが余り大きなショックは受けず、中腰のままの態勢が移動したり、尻もちついたり、動くということはなかつたと思う、蹴られたと思つている場面では、被告人は人に抱えられていたと思う、被告人は足をバタバタさせており、自分に蹴りを加えようとしているように感じた、その後、テーブルを直し休憩も取らずに交渉は継続され、一時間後に休憩した際、全解連の人からふいてもらつて、胸の足型に気がついた、

というのである。

右の秀平供述と前記被告人の供述とを対比してみると、被告人の行為の状況、事後の状況等について、ほとんど不一致は認められず、被告人の足が秀平の胸に当つたかどうかについての不一致は認められるが、押収してあるワイシャツにあるよごれのある痕跡、並びにその直後の交渉状況を写したと認められる弁護人提出の写真(弁護人請求番号一三五)によれば、被告人の足が秀平の右胸に当つたことは認められる。しかし、右秀平自身の受けた衝撃の程度は、秀平自身その直後に明白な背広のよごれにすら気付かず交渉をそのまま継続している経過、中腰の状態でその衝撃による体勢の移動がほとんど無かつたという状況等を見ても、被告人が秀平に暴行を加えようとして足蹴にしたことを証明するものではない。むしろ、被告人の供述するような状況の下で、上原に抱えられていたため、足をバタバタさせていた際に、無意識に付近にいた秀平の胸部に足が当つたと認めるのが自然であり、だからこそ、その衝撃も少なく、被告人も、秀平自身もそれに気付かないまま交渉が続行されたことも首肯できるのである。

右の次第であり、被告人の右行為は、秀平に対してはもちろん、誰に対する暴行の意思もなく、暴行罪を構成するものではない。

五なお、右状況を目撃したという証人樫原信昭、同家野修造の各供述によれば、秀平は被告人に胸を蹴られ、痛そうに胸を抱えてソファに座つたというのであるが、右供述は、明らかに前掲秀平証言と喰い違いがあり、その点に関しては倒底信用することができない。しかも、右各供述によつても、何故被告人が秀平を蹴ろうとしたのかについてもその合理的説明はなく、よつて採用することはできない。

六以上のとおり、右公訴事実についてはその証明は十分ではなく、その犯罪の証明がないことになるから、刑事訴訟法三二六条によりその部分については一部無罪の言渡をする。

(公訴棄却の申立に対する判断)

弁護人は、本件起訴は公訴権濫用にあたり、公訴棄却されるべきであると主張し、その理由として、本件事案の背景やその内容を見ても事案軽微である上、本件事件を担当した田中森一検事も示談解決による刑事事件の終結を提案し、当事者間の示談成立に向けても積極的に関与し、示談成立した場合には不起訴にする旨言明したこと、東大阪市の市教委や市長等も示談解決により不起訴になると確信していたにもかかわらず、突如として起訴がなされたもので、本件起訴は担当検察官の意向を無視した政治的目的による起訴であるというのである。

ところで、我国においては、起訴便宜主義がとられ、事件を起訴すべきか否かは、検察官の健全な裁量に委せられており、その裁量に当つては、犯人の性格、年齢及び境遇、犯罪の軽重及び情状並びに犯罪後の状況等が考慮されるべきことは衆知のとおりであつて、その起訴が右のような裁量権を逸脱してなされたときには、公訴の提起を無効ならしめる場合がありうることは弁護人指摘のように、最高裁昭和五五年一二月一七日第一小法廷決定によつても認められるところであるが、右決定は更に、それはたとえば公訴の提起自体が職務犯罪を構成するような極限的な場合に限られるとし、裁量権の逸脱が直ちに公訴提起を無効ならしめるものとはせず、更にそれを限定した狭い範囲で公訴提起を無効ならしめる場合があると判示しているものである。そこで本件の場合に、果して、訴追裁量権を逸脱し、しかもそれが右決定でいうところの極限的な場合に当るのかどうかが問題となつてくる。

証人福山孔市良、同田中森一の各供述並びに前掲各証拠を総合すれば、次の各事実が認められる。すなわち、

被告人は昭和五五年五月二九日逮捕され、直ちに被告人のために福山弁護人ほか多数の弁護人が選任され、右弁護人らは、大阪地方検察庁の担当検事田中森一、同島谷公安部長らと直ちに面会し、本件事案の背景や本件事案の内容等を説明し、被告人を勾留しないよう働きかけるなど積極的な弁護活動に入つた、被告人に対する勾留請求は裁判所において却下され、被告人の身柄が釈放されたことから、右弁護人らは、右田中検事らと積極的に面会し、不起訴にするよう働きかけたが、右交渉に際し、本件について、市教委側と被告人との間で示談解決の話が出、右示談が成立するまでは、処分を留保する旨の意思を田中検事が右弁護人に伝え、弁護人側は、市教委側との示談が成立すれば、本件は不起訴になるものと確信し、全解連側に示談交渉を勤めることを促した、市教委と全解連は、府教委等の勧告もあつて、本件の不起訴に向けて真摯な示談交渉がなされ、その結果市教委側と被告人側とに合意が成立し、市教委側は同年七月七日検察庁に対し寛大な処分を望む旨の嘆願書を提出し、これによつて弁護人らは、不起訴によつて結着がつくものと期待していたところ、同年九月一日ころ、右期待に反し田中検事から被告人を起訴する旨の連絡を受け、被告人は同月五日付で本件起訴がなされたものである。

右の事実経過からみて、担当の田中検事が示談成立の暁には、本件を不起訴にする旨言明したか否か必ずしも明らかではなく、これを認めることはできないが、しかし、田中検事と交渉に当つていた弁護人や市教委側の間では、示談成立すれば不起訴になるとの感触を得て示談交渉を進めていたことは十分窺うことができ、そのような印象を与える検察官の言動があつたとも受け取れなくはない。

しかしながら、起訴不起訴は担当検事の意思によつて決定するものではなく、検察官制度は検察官同一体の原則によつて支えられており、担当検事の意向をも参考にしながら、公益の代表者たる立場から起訴不起訴を決定すべきものであることは、弁護人も十分熟知しているとおりである。ところで本件についてみると、弁護人主張のように被告人に有利な事情も多々見受けられ、示談成立によつては不起訴になる事案であると期待したのも、弁護人の立場として十分理解できる。しかし翻つて考えてみると、少数の市教委側と多数の全解連側の交渉で、たとえ被告人側にそれ相応の理由があつたにせよ、一方的に暴行を加えたという事案であることを考えれば、検察官の立場として本件事案を起訴したことは、訴追裁量権を逸脱したとまでは評価できない。

以上のとおり、本件事案を全体的に考察すれば、本件起訴を無効ならしめる事由は存在せず、よつて弁護人の右主張は採用できない。

(本件傷害についての弁護人の主張に対する判断)

弁護人は、本件傷害が発生した経緯について、被告人が樫原教育次長の答弁に抗議して、前から二列目の座席から立ち上がり、前へ出ようとしたのであるが、最前列に座つていた東、中村両名の間へ割り込み、被告人の膝が右両名の膝を前へ押し出すようになり、その結果右両名の膝がテーブルを前へ押し出し、押されたテーブルが右樫原の膝に当つたのであつて、被告人がテーブルを蹴つたり、押したりしたものではなく、被告人には暴行の故意はなかつたと主張し、右主張に副うような被告人の当公判廷における供述並びに証人東延の当公判廷における供述が存在する。

しかしながら、前掲証人樫原信昭の供述によれば、被告人が樫原の目の前でテーブルの天板を勢いよく蹴りつけたのを目撃しており、その一瞬両膝に激痛が走つたと述べている。しかも前掲証人秀平勇造の供述によつても、その目撃した状況は、右証人樫原の供述とほぼ同趣旨であるうえ、被告人がテーブルを蹴ろうとしている具体的動作を目撃しその旨供述している。しかも樫原の傷害の程度を見ると、証人梅垣修三の供述によれば、左膝に痛みがあるうえ腫れを外見的な所見として認めることができたというのであるから、右テーブルがかなりの勢いで右樫原の膝に当らないと出来ないような傷害の程度であると認めることができる。もし弁護人主張のような態様で、被告人が前へ出ようとして東、中村の両膝に当り、それらがテーブルを前へ押し出したとするならば、その衝撃の程度では右のような傷害は発生しないと認められる。

なお証人東延は、全解連の代表として主に市教委側との交渉で中心的役割を果していたものであり、右事件に際しても、その交渉の真最中であり、同証人の後にいた被告人の突嗟の行動については、十分目撃できる状況にはなかつたものというべきであり、それに反し証人樫原、同秀平は十分目撃できる立場にあつたと認めることができ、以上の各事実を総合すれば、証人樫原、同秀平の各証言は十分信用でき、右に反する証人東延の供述、被告人の供述は信用できない

ところで、樫原の傷害の部位について検討すると、診断書によると、両膝蓋骨部打撲傷という記載があるが、証人梅垣修三の供述によれば、初診時において左膝に関しては痛みもあり、腫れもあつたが、右膝については外見的所見はなく、本人の訴えが主であつたため右膝については単に右膝打撲とカルテに記載したこと、しかも写真撮影報告書によれば、被害者の傷害の部位を明確にするため撮影されたものの、樫原の写真は左膝についてのみの撮影であることを総合すると、果して樫原の右膝部分に関しては、傷害といえる程度のものであつたのかどうか疑しく、右膝部分についての傷害について、なお証明十分とはいえない。

(量刑の理由)

本件は前記認定のとおり、市教委側と全解連側との交渉に際して行なわれた暴力事件であり、右のような交渉は話し合いによつて解決されるべきであつて、いかなる暴力も許されるべきではなく、暴力によつて自己の主張を相手方に押しつけようとする態度は厳にこれを差し控えなければならず、このような観点からすれば、被告人もその責任を十分自覚しなければならない。

しかしながら更に翻つて考えると、被告人の本件行為に至つた経緯、その後の事情等をみれば、弁護人主張のように有利な事情も多々見受けられる。すなわち、被告人の生まれ育つた環境から、自己が十分な教育を受けられず、せめて被告人の子供には十分な教育を受けさせてやりたいとの気持を非常に強く持ち、被告人の長男を意岐部東小学校設立と同時に小学一年生に入学させ、その期待も非常に大きかつたにもかかわらず、弁護人提出の各証拠によつても認められるように、公教育にふさわしくない学習が取り入れられていることを知つた被告人が、右教育内容を是正し、基礎学力の充実を図らなければならないとの決意を持つに至つたのも、被告人が現に右小学校に長男を通わせている父兄のひとりであるという立場を考慮すれば、十分理解することができる。しかもこれを是正するには、市教委との交渉以外には途はなく、市教委も被告人らと同様の見解を持ちながらこれを是正するには積極的でないような態度を示し(もつとも、四・二九同盟登校に関しては全解連との面会は一切なかつたが、意岐部東小学校との指導は数回行なわれており、市教委としてもそれなりに努力してきたが結局その指導については効を奏さず、市教委の指導とは裏腹に四・二九同盟登校が実施された経緯があるが、本件全解連との交渉の過程では、右の事情は余り明確にされなかつた。)、その効果も表れていないため、焦燥感を持つて本件交渉に臨んだ経緯がある。しかも、右交渉に際しては、教育における窓口一本化を固執し、全解連との交渉を避けるような態度を示したことに端を発し本件傷害事件が発生したものであり、右の状況のもとにおいては、市教委側にも反省すべき点は多々あるものといわざるを得ない。本件傷害は右のような交渉の中で偶発的に生じたものであり、被告人の行為は、直接被害者に対して暴行を加えたというものではなく、テーブルを一回蹴つたというものである上、被害者の傷害の程度も左程重大ではなく、本件後、市教委側との間で円満に示談が成立し、市教委側も寛大な処分を望んでいること、その他諸般の事情を考慮すれば、本件については、罰金刑を選択するのが相当であると判断した次第である。

(法令の適用)

判示所為 刑法二〇四条、罰金等臨時措置法三条一項一号

刑種の選択 罰金刑を選択

換刑処分 刑法一八条

訴訟費用の負担 刑事訴訟法一八一条一項本文

(裁判官田中正人)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例